
岩岡 道夫 先生

セレン(Se)は34番目の元素で、16番目の硫黄(S)と同じ第16族の元素です。セレンと硫黄は互いに良く似た化学的な性質をもちますが、セレンは硫黄よりも高周期の元素であるため、酸化も還元もされ易いという特性があります。この特性は、有機合成の分野において広く応用され、これまでに数多くの有用な有機セレン試薬が開発されてきました1)。
一方、生物界でも、セレンの特性は様々な酵素において応用されており、セレンは生命の維持に欠くことのできない重要な微量栄養素となっています2)。私たちの体をつくる細胞の中にもごく微量のセレンが存在します。しかし、セレンには強い毒性もあるので、セレンを過剰に摂取することは避けなければなりません。このように、セレンには生命活動を支えるという良い面と、生命を危険に晒すという悪い面の二面性があり、日々の食事から適量のセレンを摂取することが推奨されています。
近年、セレンの生物学的な重要性が明らかになり、これに呼応して、セレン化合物を創薬へと応用する試みも世界各国の研究者によって進められています。“セレン創薬(Selenium Drug Discovery)”は未だに達成されていませんが、近い将来、ある種のセレン化合物が薬として応用されているかもしれません。本総説では、セレン創薬に関する我々の研究室の最近の取り組みについて紹介します。
生体内のセレンは、主にセレノシステイン〔以下、(1)〕として存在し、様々なタンパク質の活性中心に取り込まれています(図1)。(1)は、アミノ酸のシステインの硫黄原子がセレン原子に置換された天然に存在するアミノ酸です。興味深いことに、(1)には特定のコドンが存在します。リボソームにおいて、遺伝情報がアミノ酸配列に翻訳される際に直接ポリペプチド鎖に取り込まれることから、(1)は21番目のタンパク質構成アミノ酸とも呼ばれています3)。
代表的なセレン含有酵素には、グルタチオンペルオキシダーゼ(GPx)やチオレドキシンレダクターゼ(TrxR)などが知られています。これらをはじめ、セレン含有酵素の多くは生体内の酸化還元反応を触媒する酵素であり、活性酸素種による酸化ストレスを軽減したり、小胞体においてタンパク質のフォールディング過程を制御したりする役割を担っています4)。酸化ストレスやミスフォールドしたタンパク質の蓄積は様々な疾患を引き起こすことから、生物はセレンがもつユニークな酸化還元特性を巧みに利用することで正常な生命活動を維持しているということができます。
3-1.生体分子セレンアナローグ
我々の研究室では、セレン創薬のターゲットとして、生体分子中の硫黄原子や酸素原子をセレン原子で置換した化合物、すなわち生体分子のセレンアナローグに着目しています。例えば、グルタチオン(GSH)のセレン置換体であるセレノグルタチオン〔GSeH、以下(2)〕やインスリンのジスルフィド(SS)結合をジセレニド(SeSe)結合で置換したセレノインスリン〔SeIns、以下(3)〕などが挙げられます。これらの生体分子セレンアナローグはセレノシステインを含む非天然物質ですが、もとの天然物とほぼ同じ立体構造をもち、高い生体親和性を示します。このため、毒性が小さく、創薬に適していると考えられます。さらに、酸化還元活性が高いセレン原子が置換していることで、もとの天然物とは異なるユニークな性質をもつことも期待できます。
3-2.セレノグルタチオン
GSHは細胞内に豊富に存在する抗酸化剤(還元剤)で、酸化ストレスや糖化ストレスの抑制に関与しています。そのセレンアナローグである(2)は、γ-グルタミン酸−セレノシステイン−グリシンからなるトリペプチドで、細胞内には存在しない非天然化合物です。(2)のセレノール基(-SeH)は溶存酸素によって容易に酸化されるため、セレノグルタチオンは通常は安定な2量体(GSeSeG)として得られます。我々の研究室ではGSeSeGの高効率な合成法を確立し、その性質を調べています5)。興味深いことに、GSeSeGは細胞に存在する酵素グルタチオンレダクターゼ(GR)と還元剤ニコチンアミドアデニンジヌクレオチドリン酸(NADPH)によって還元されます(図2a)。このことは、GSeSeGが細胞内で容易に活性型(2)に変化することを意味します。我々は、この性質を利用することで、GSeSeGを抗酸化ストレス剤として利用することができるのではないかと考えました。
モデル細胞としてHeLa細胞を用い、これに25 µMのGSeSeG溶液を一晩浸潤させ、その後1mM H2O2を作用させたところ、GSeSeGで前処理しなかったHeLa細胞は生存率が約40%であったのに対して、GSeSeG処理した細胞では生存率が約80%に向上しました(図2b)6)。GSeSeGの代わりに酸化型GSH(GSSG)で前処理した場合には生存率の向上は見られませんでした。このことから、GSeSeGがGSSGよりもはるかに高い抗酸化ストレス活性をもつことが明らかになりました。また、GSeSeGの細胞毒性を調べた結果、GSeSeGは濃度50 µMまでHeLa細胞に対して全く毒性を示しませんでした。GSeSeGを抗酸化剤として応用できる可能性が示されたので、現在さらに詳細な解析を進めています。
図2. セレノグルタチオンの抗酸化ストレス作用
a:細胞内におけるGSeSeGの活性化
b:H2O2ストレス有無の条件におけるHeLa細胞の生存率(CN:control)
3−3.セレノインスリン
インスリンは膵臓のβ細胞から分泌されるペプチドホルモンであり、食後の血糖値を抑制する作用をもちます。構造的には、2本のペプチド鎖(A鎖とB鎖)が2個のSS結合で架橋した特徴的な分子構造をもちます。インスリンのような2本鎖タンパク質を化学合成することは極めて困難であると考えられてきましたが、我々は2017年に2個のSS架橋のうちの1個をSeSe結合に置換することで、インスリンのセレンアナローグの(3)の化学合成に初めて成功しました(図3a)7)。SeSe結合はSS結合に比べて優先的に形成されるので、A鎖とB鎖にセレノシステイン残基(Sec)を1個ずつ導入しておけば2本のペプチド鎖間の架橋が効率よく進行すると考えました。実際に、インスリンA鎖のCys7AとB鎖のCys7BをSecに置換したペプチドを合成し、これらをpH10の緩衝液中、低温で混合したところ、目的とするSeSe結合で架橋された(3)が収率よく生成されることを見出しました。この合成法では一切の保護基がない2種類のペプチド鎖を混合するだけで効率的な分子間カップリングとフォールディングを達成しており、この手法を我々は天然鎖アセンブリ法(NCA法)8)と呼んでいます。NCA法はセレンアナローグだけでなく、天然型のインスリンの化学合成にも適用することができ、2本のペプチド鎖からなるタンパク質の化学合成法として有用であることが示されています9)。
合成した(3)の血糖値抑制効果を、糖尿病モデルラットを用いて調べたところ、興味深い結果が得られました(図3b)10)。(3)を150 µg/300 g ratでラットに皮下注射したところ、血糖値が低下し、その効果は10時間以上持続することが明らかになったのです。一方、天然型のインスリンの場合には、血糖値は数時間で元の値に戻りました。このことは、(3)が持効型インスリン製剤として応用できる可能性を示唆するものです。(3)を投与したことによる毒性も、今のところ観測されていません。詳細な解析をおこなったところ、(3)が示した持効性は、(3)が多量体を形成しやすく、インスリン分解酵素に対して強い分解耐性をもつことに起因することがわかりました。(3)が多量体を形成しやすい理由はわかっていませんが、天然型インスリンとも多量体を形成することが示されており、天然型インスリンの持効性を高める効果ももつことが示唆されています。

図3. セレノインスリン(3)の合成法(a)と血糖値抑制作用(b)
(1)を応用した生体分子セレンアナローグである(2)と(3)は、生体内に存在するグルタチオンやインスリンを超える抗酸化ストレス作用や血糖値抑制効果を示すことが明らかになりました。また、これらは生体親和性が高く、毒性が小さいこともわかりました。現在、各国の研究者によって、創薬への応用を目的として様々なセレン化合物の生物活性の調査が進められています。研究を進めることで、セレン化合物が病気の予防薬や治療薬として応用される日が来ることを期待したいと思います。
商品は「研究用試薬」です。人や動物の医療用・臨床診断用・食品用としては使用しないように、十分ご注意ください。
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