はじめに
世界中で4,700万人を超える人々が認知症と診断されており、その大部分はアルツハイマー病(AD: Alzheimer’s disease)に起因します。神経変性疾患であるアルツハイマー病に関わるコストは、社会的負担を除くと、世界の国内総生産の 1.09% になります1。アルツハイマー病の病態生理学的な特徴として、運動や言語、認知の欠損をもたらす重度の認知障害が挙げられます。また、分子レベルでの神経病理学的な特徴には、Βアミロイド斑、および、2本の高リン酸化 Tau タンパク質のらせん状線維からなる神経原線維変化(NFT: neurofibrillary tangle)の形成が含まれます。本稿では、翻訳後修飾(PTM)による Tau の機構的制御と、Tau の翻訳後修飾の調節(図1)に基づく新規アルツハイマー病治療法の開発に注目します2。
Tau のリン酸化
脳脊髄液(CSF: cerebral spinal fluid)中の総 Tau 量の増加は、アルツハイマー病やその他の神経変性疾患と関連します。従って、総 Tau 量は、アルツハイマー病に特異的なマーカーとしてではなく、ニューロンの損傷および変性のマーカーとして定義されています3。反対に、脳脊髄液(CSF)中の T181 がリン酸化された tau 量の増加は、アルツハイマー病のみに関連することから、アルツハイマー病に特異的な数少ないバイオマーカーの1つになっています。神経原線維変化(NFT)は、死後にアルツハイマー病の病状を確認するために日常的に用いられており、近年の研究結果から、アルツハイマー病の Braak stage 初期に tau オリゴマーを検出できることが示唆されています。さらに、NFT の成熟と分布は、アルツハイマー病の認知機能低下に相関することから、アルツハイマー病の発病において神経原線維変化(NFT)が重要な役割を果たすことが示唆されます4。
翻訳後修飾の1つであるリン酸化により、Tau と微小管との生理的な相互作用が調節されます4。しかし、アルツハイマー病では、Tau が過剰にリン酸化されており、このリン酸化が Tau の誤った局在化、機能不全、凝集、神経原線維変化(NFT)形成を推進し、調節する機構となります5,6。Tau の過剰リン酸化は、45 個もの残基で生じており、その中には通常の Tau リン酸化部位とは異なる残基も含まれています3,6。Tau の過剰リン酸化は、cAMP 依存性プロテインキナーゼ、 c-Jun N末端キナーゼ3(JNK3)、グリコーゲン合成酵素キナーゼ3Β(GSK3B)、サイクリン依存性キナーゼ5(CDK5)などの数種類のキナーゼによって調節されます2。JNK3、CDK5、GSK3B 阻害剤は全て、in vitro および動物モデルにおいて神経保護特性を示します。GSK3B 阻害剤は、臨床試験が行われましたが、有意な効果が認められなかったため試験が終了しています2,7。しかし、脳脊髄液(CSF)中でCDK5 と共に増加するJNK3の阻害は、現在も治療法の候補となっており、詳細な検討が行われています。Tau の過剰リン酸化を調節する他の方法の一つに、Tau を脱リン酸化するホスファターゼの活性化があります。開発中のプロテインホスファターゼ2(PP2A)のアゴニストである亜セレン酸ナトリウムは、アルツハイマー病モデルマウスにおいて認知機能を改善することが示されています8,9。
図1 Tau の翻訳後修飾はアルツハイマー病治療の標的となっている